電話ボックス

ひろ子は定時に勤めを終え普段通りの帰路についた。
最寄りの駅から徒歩8分。
この交差点を渡ると人通りがほとんどなくなる。
店舗も一つもない。
後方から感じる気配に気が付いていた。
交差点を渡り家路を急ぐか、後方からのプレッシャーをやり過ごすか
メールを確認するふりをして迷っていた。
信号が変わった。
後方のプレッシャーに動きがない。
ひろ子を抜くでもなく、右に行くでもなく左に行くでもなく。
(もしかしたら勘違いかもしれない)
用事を思い出したふりをして思い切って振り返った。
30mほど後方にいた男と目が合った。
男はすぐに目をそらした。
見ず知らずの男だ。
身長は170cm 体格はがっしりとしていた。
ひたいが広く清潔とは言い難いベタっとした頭髪。
くたびれたスーツを着ている。
表情は陰険。
誰を待つでもなく、不自然にそこに居たのだ。
近寄ってはいけない。直感を信じた。

自宅へ向かうのをやめ、右に曲がり200mほど離れた飲食店に向かった。
もしもそこまでついてくるようならば飲食店の人に助けを求めようと考えた。
足が震えるような恐怖を感じていた。早く歩こうとするが思うように足が出ない。
後ろからついて来ているのかどうか分からない。
恐ろしくて振り返ることが出来なかった。
飲食店の灯りが見えてきた。
ここまで来ればなにかあっても店に飛び込める。
思い切って振り返った。周りを見渡す。
男は居なかった。
飲食店に入ったが、男が居なかったので後をつけられていると助けを求めることは憚られた。
食事をして時間を潰すことにした。
飲食店の窓から何度も外を確認する様子に気が付いた男性店主が
「どなたか来られますか?」と聞いてきた。
少しほっとした気分になり、駅からつけられたと思われることを話した。
「この辺は人通りが少ないですからね。心配でしたらご自宅まで一緒に行きますよ?」と言ってくれたが、流石に気が引けた。
「いや、もし何かあったら走って帰りますから」と愛想笑いをしてしまった。

1時間ほど店主と談笑しながら食事を終え、だいぶ気分は落ち着いた。
お会計を済ませ店外に出る。店主も一緒に出てくれた。
二人で見渡すがそれらしい人は確認出来なかった。
「大丈夫そうですね」また愛想笑いをして大丈夫を装った。
『自宅まで一緒にお願い出来ませんか?』と勇気を出して言うべきだった。

来た道を戻る。またあの交差点に向かった。
すっかり日が暮れている。街灯だけが頼りだ。
明るいうちに帰るべきだったかと少し後悔した。

交差点を右に曲がった。
この先はもう頼れるものがなにもない。
いつも誰もいない電話ボックスのある公園が見えてきた その時

後方からコツンと革靴の底が擦れる音が聞こえた。
反射的に振り返るとあの男がいた。
目が合った。
「さっき、店の男と俺のことを探していたのか?」
上目遣いでにらみながらゆっくりとした口調で言った。
「いえ」この一言が精一杯だった。
男は大声で「嘘をつくんじゃねぇ!」と物凄い勢いで近づいてきた。
全身が硬直するような恐怖を覚えたが逃げる以外の選択肢はなかった。
公園を越えればすぐに家だ。必死に走ったが男の走力には敵わなかった。
腕を掴まれ「別になにもしねぇよ!」と男は言った。
骨に食い込むような物凄い力だった。
怒りをエスカレートさせると何をされるか分からない恐怖があった。
逃げるのをやめたが言葉が出ない。
男の鼻息が荒い。走った為ではない。興奮しているのが見て取れた。
「おまえの家、この先だろ?少し話そうぜ」
この男は家に来ようとしている。
怒らせない言葉を必死に探した。
落ち着いて「見ず知らずの男の人を入れる訳にはいかないでしょ」絞り出した。
「手を離して。痛い」
意外にも男はすんなり手を離した。
「じゃあ公園で少し話そう」
「何を?話すことないです」
男の目が吊り上がった。
「俺があるんだよ!!」と激高した。
(まともに話せる相手じゃない。)
身体的な接触をなんとしても避けたい。
電話ボックスの中に入れば少しの間は安全が確保される。

ひろ子は男を越えてはるか後方に視線を向け誰かを呼ぶように「すみません!!」と可能な限りの大声を出した。
男は一瞬怯み振り返った。
その隙に電話ボックスに飛び込んだのだ。
電話ボックスの中からドアに強く寄りかかると外から開けるのは難しい。
騙されたことに気が付いた男の様子は一変した。
「くそぉ!!」
電話ボックスのガラスを素手で殴り始めた。
今のうちに警察を呼ぼう。
電話機に設置してある赤いボタンを押せばよかったのだがひろ子は知らなかった。
鞄からスマホを出そうと探すが気が動転して中々みつからない。
男は地面にあったこぶし大の石を拾って力の限りガラスに叩きつけた。
ガラスは粉々に粉砕されひろ子に降りかかった。
男は手を伸ばしひろ子の髪の毛を鷲掴みにし自分の方へ引き寄せ耳元に
「殺す」と言った。
ひろ子は気を失った。


ひろ子が目を覚ますと男は居なかった。
何分気を失っていたのだろうか。
外はまだ暗い。誰も通らなかったのだろう。電話ボックスに寄りかかるように尻もちをついたままだった。
ゆっくり立ち上がり全身に降りかかったガラスの破片を落とした。
ボックスから出る前にもう一度周りを見渡した。
間違いなく居ない。
やっと電話ボックスから出ることが出来た。

「よく寝たな」

男が電話ボックスの屋根から見下ろしていた。

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二輪草 番外編