気を流すということ 9
この世界は目にみえるもの 見えないものが半々で成り立っています。
目に見えるものしか信じないという人は半分の理解で生きることになります。
決して不幸せなこととは思いませんが、人の祈りがエネルギーに代わるという当たり前のことも信じることが出来ないまま生きるのかもしれないと思うと気の毒なような気もします。
目に見えない世界を知ることが優れたこととか、人生を豊かにするといったことを言いたいのではありません。
知らない方が良かったという人もいるでしょうから。
気を使うということは目に見えることだけ、言い換えれば体裁だけ整えるものではないと思います。
どれだけその人のことを想うことが出来るかではないでしょうか。
しかしながら想うだけでもダメなわけで、言動、行動が伴わないと意味がない。
気を使うということは即ち、想いと行動が一致すること。
「お気遣い」とはそういうことだと思います。
このバランスが悪い人がいます。私も含めて。
育ち、教養、性格も加味されますし、距離感によっても変わります。
気の通りの良い人はなにをやってもスマートです。
そして気の交流が活発になればなるほどその対象は大きくなります。
個人からグループへ。地区から地域へ。国から世界へ。地球から宇宙へ。
過剰になると消耗します。
”身の程” が重要になります。
ただし、気の器は訓練で大きくすることが出来ます。(師匠に確認しました。いくらでも大きく出来るそうです。
さてここまで、気に携わり続けて20年↑のわたくし一個人の考察です(笑)
気は概念 と理解されているかたも多いと思いますし、同業の鍼灸師も「気」という言葉が出ると眉間にしわをよせる者も少なくありません。
しかしながら気は存在します。そこにあります。質量をもち、いまそこに存在しています。